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亀井亮介 (2012年8月 4日 02:03)

寂しさを吹き飛ばしたのはミッシェルガンエレファント|2000年7月29日土曜日 フジロックフェスティバル2000 2日目

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写真は本文とは全く関係ない万座毛@沖縄県恩納村

 

2000年7月29日土曜日 フジロックフェスティバル2000 2日目

 

 2回目のフジロックフェスティバルで、前日のこともあってか、2日目は遅くスタートした。

 

ドランゴンドラで、山の上まで行って自然を満喫していた。

 

グリーンステージでTHE ANIMALHOUSEを観た後は、グリーンステージとレットマーキーをいったりきたりしていた。

 

何となく心あらず。そんな感じだと思う。

 

ただ、モッシュ&ダイブをするだけでなく、まったりと過ごしても楽しいのはフジロックの魅力でもあると思う。

 

この日の直では観ていないのだが、フジロックから帰ってきてテレビで特集をしていたのだがそのときのTHE BLUE HERBのライブが衝撃的でバンドのメンバーと繰り返しみた。

 

当時、ヒップホップといえば、ビースティボーイズかDr.ドレーを少し聴いていただけで、どっぷりと聴いている感じではなかった。

 

正直、当時は日本語ラップには懐疑的だったと思う(今、日本語ラップしているが) 日本語ラップの価値観が変わったのはこの瞬間だ。

 

この日は特定のバンドやミュージシャンを観たというよりもフジロックフェスティバルそのものを満喫していた日であった。

 

グリーンステージのSONIC YOUTHから、テンションが上がってきた。

 

JOHNNY MARR'S HEALERSを観た後は

 

THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

 

ブランキージェットシティの解散の寂しさを紛らわすのは彼らしかいなかった。

 

どことなく寂しい感じで過ごしていたが、この日のTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTはそれを吹き飛ばしてくれた。

 

下を向いていても、誰も喜んでくれない。

 

今思えば、

 

RICHARD D.JAMES

 

LUKE SLATER

 

CARL CRAIG

 

観ておけば良かった・・・

亀井亮介 (2012年7月24日 16:02)

音楽を続ける理由はブランキージェットシティ解散の時だった|フジロックフェスティバル2000 1日目

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写真は本文とは関係ない沖縄の写真(笑)

 

2000年 7月28日 フジロックフェスティバル2000

 

年に一回の楽しみ「フジロックフェスティバル」がやってきた。しかも、今回のフジロックフェスティバルは自分にとって、一番特別な意味のあるフジロックフェスティバルであった。

 

高校生の頃、バイト先で知り合った一つ下の男の子が 「亀井さん、音楽好きですか?ブランキー知ってます?マジでやばいですよ」 といつも興奮気味に話していた。

 

当時、セックスピストルズに触発されパンク街道まっしぐらだったが、曲は聴いたことがなくても名前は知っていた。何故なら、幼なじみで毎日遊んでいた友達も好きだったからだ。この友人宅で、セックスピストルズを聴いたので、自分にとっては彼が、音楽の柱であった。

 

あんまりの情熱と熱意に押され、 「そこまで、いうなら聴いてみるから貸してよ」 というと 「亀井さんパンク好きだからなぁ〜」 といい、"C.B.Jim"というアルバムを貸してくれた

 

今まで、「歌詞」にはそんなに興味はなく、雰囲気とか勢いとかそんなところばかりを感じていたのだが、浅井健一ことベンジーの詩の世界観が独特で、奇麗で、儚くて、喜怒哀楽を超えて感じるものがあった。 パンク野郎としては「パンキー・バット・ヒップ」とか「D.I.J.のピストル」とかが真っ先に好きになる。

 

それ以上に、「悪いひとたち」の詞が本当に「ずんっ」ときて、「もわぁ」として、何ともいえない気持ちになり、突き抜けた喜び、快感ではなくじんわりくる「なにか」がのしかかってくるような感じ 曲づくりを初めて、しばらくは「詞」が適当だったのだが、彼以上の詞が書けないという理由だった(いまは歌詞に重みを置いているが、彼以上の詞が書けるとはもちろん思っていない。)

 

少なくても自分の中では一番のリリシストだ。

 

セックスピストルズやニルバーナと共に影響を色濃く受けたミュージシャンで、「影響を受けた」という意味では一番。

 

そのバンドがこの日をもって解散するのだ。

 

「解散」の一方は朝日新聞の一面をすべて使い告知された。

 

大学生になってから、何度も彼らのライブを観てきた。当然、最後のライブも観たかったのだが、どうしても都合がつかなくて、最後の横浜にも行けなかったのだ。

 

あんまりにも残念過ぎてしょんぼりして泣いていた時に、この一方が目に留まる。

 

みたいようなみたくないような

 

そんな複雑な気持ちを抱えながら聖地苗場に着く

 

この日のFIELD OF HEAVENでは、間寛平 with アメマ〜ズが一発目、そう、あのマラソン世界一周したカンペイちゃんが、フジロックフェスティバルに出た日でもある。

 

もの凄くお笑い好きでもある自分としては色々な意味楽しみにしていた。

 

バックバンドのメンバーが日本パンクの重鎮ばかりで驚いたし、この日唯一のダイブを敢行した。

 

このときは楽しめたのだが、この後のことを考えるとどうしても手放しで楽しめないのだ。

 

PLACEBOとそのとき気になっていたミュージシャンを観つつ、ゆっくりと過ごす、FOO FIGHTERSも楽しみにしていたバンドだ。元ニルバーナのドラマー「デイブクロール」のバンド。それでも、心あらずで観ていた。

 

この日のホワイトステージはASIAN DUB FOUNDATIONで、ブランキージェットシティと時間帯が被るのだが、複雑な気持ち(観たいけど観たくない)から、数曲だけ観ようということで、ホワイトステージへ、ASIAN DUB FOUNDATIONを2、3曲聴いたところで、やはりいてもたってもいられず、グリーンステージにダッシュした グリーンステージに着き、間もなくブランキージェットシティが始まった。

 

ライブが始まる直前は期待に胸が膨らむのだが、この日はその感じがあまりにも切なくてその時間を避けたくて、ホワイトステージに行ったのだ

 

もちろん、モッシュピットには入れないし、モッシュする気分でもなかったし、人ごみの中で聴きたくないし、感じたくなかった。

 

ステージを正面にしてPA席の右隣の当りで、立ち尽くしながら最後の時を見逃さないように立っていた。

 

プラネタリウムで始まり、勢いのある曲パイナップルサンドと続き、どの曲も聴いてもベストと思うのだけど、赤いタンバリン、ガソリンの揺れかた・・・

 

この当りを演奏されたら飛び上がりそうなものだが、静かにじっと聴いていた

 

最後の方、 3104丁目のダンスホールに足を向けろ ロメオ PUNKY BAD HIP 僕はヤンキー セッションを挟み、D.I.J.のピストル 当たりは大暴れするところだが、ただ立っていただけ

 

ただただ、立っていて、聴いていて、セットリストを振り返っても、明るい勢いのある曲が多くて、暗くなるのではなく前を向いて明るく「さよなら」しようという意図があるような気がして、それを考えていたら、何か違うような気がして少しだけ後悔していたところに、アンコールで登場して BABY BABY 会場は一気にヒートアップして、最後は思いっきり笑ってやろうじゃないか、そう思い、できるだけ近くにダッシュして、無理矢理ダイブしてなるべく近くまで近くまで、途中、ダイブに怒ったのか、背中を何発も殴られても、全く気にならず「そー、怒るなよ。最後は笑って終ろうよ」と思いながら、最後の時を心の底から楽しんだ 「じゃあ、またね」

 

そのベンジーの一言を聴いて 「あ、俺、音楽活動はずっと続けよう」 何故かそう思い、その想いは今も続いている。

亀井亮介 (2012年7月23日 03:07)

フジロックは人生の単位だ|思い出のフジロックフェスティバル1999-2005 1999年8月1日3日目

1999年7月30日フジロックフェスティバル3日目

 

この日は絶対観たかったのは、ロックの神様ともいえる"JOE STRUMMER"だ。

 

クラッシュのフロントマンであり、このときも現役で精力的に常に挑戦している人だ。

 

まさか、レジェントを目の当たりにできるとは思わなかったのでみただけで感動することは間違いなかった。

 

昼間に歩いていると人だかりができていた、外人さんがサイン攻めにあっていたのでとりあえずサインをもらった。

 

後から知ったのだが、当時プライマルスクリームに入ったばかりで、今年はストーンローゼスでフジロックフェイスティバルにでるマニだった。

 

SR2Sはローゼスとプライマルに非常に影響を受けている。

 

このときはまだ、二つとも名前を知っている程度だった。

 

「忌野清志郎」という人は本当に凄いなとおもう。自分に正直なんだろうなと、自分が思うことをいい、行動するそういう人なんだなとライブを観て思った。

 

だから、こんなにもライブを通して人を喜ばせることができる人なんだ。

 

忌野清志郎とジョーストラマー 日本のロックの神様とU.K.のロックの神様

 

この2人が同じ日に同じステージに立った 今思うと凄いな それをきちんと体感できたことは大きな経験。

 

大学の単位を4つ落してもそれ以上に大きな経験を得ることができた。

 

 「単位よりもフジロックをとれ」 

亀井亮介 (2012年7月20日 09:28)

フジロックは人生の単位だ|思い出のフジロックフェスティバル1999-2005 1999年7月31日2日目

1999年7月29日フジロックフェイスティバル2日目

 

パンク野郎としてはホワイトステージに張り付くことになる DMBQを体力温存しながら楽しみ、いよいよブラフマンだ。

 

ブラフマンは当時コピーしていたし、ライブバンドとして一番好きだったので楽しみにしていた。

 

フジロックを通して世界中のバンドをみたけど、トシロウのライブパフォーマンスは未だに、一番好きだ。

 

とにかく熱い、言葉でうまく表現できないのだ。

 

自分のライブパフォーマンスも少なからず影響を受けている。

 

この日をライブをみて、自分のライブももっと熱くやろうと思ったのだ。

 

とにかく熱い、最高。それだけ

 

Feederをみながらゆっくりし、"BACK DROP BOMB"も好きなバンドだ。モッシュも凄くて、密着度が少ない分ヒジやら足やら飛んでくるし、暴れ狂っている人間が多いので非常によくぶつかる 体が冷えていると、ぶつかった時に非常に痛いのだが、あったまっていると痛みもなく怪我も少ない。

 

この場所で、準備体操して体を温める意味を知った。

その後は、これまた熱い"eastern youth"をみて、"ATARI TEENAGE RIOT"をみる。

 

この日も力つき夜中の「Virgin TENT "PLANET GROOVE"」に行くことなくテントに戻る

亀井亮介 (2012年7月20日 01:52)

フジロックは人生の単位だ|思い出のフジロックフェスティバル1999-2005 1999年7月30日1日目

いよいよフジロックフェスティバルが近づいてきました!

 

残念ながら、子供が産まれ沖縄に移住して以来ロックフェスに参戦することはかないませんが、ミュージシャンである以上は呼ばれること日を待っています!

 

せっかくなので、自分の原点にも関わる8年間連続参戦したフジロックフェスティバルの軌跡をブログで振り返ります。

 

1999年 7月

 

初めてのフジロックフェイスティバル。

 

怖がっていたわりに、初日の30日はテストと被り、テストよりもフジロックフェイスティバルを取り(結果4単位落す)、「フジロックは人生の単位」と割り切った。

 

そのくらい頭の中に音楽の割合が増えてしまったのだ。

 

フジロックフェイスティバルの会場は開放的で、全国から集まったロック野郎どもがごったがいしていた。

 

前日に着き、もの凄い傾斜の中テント張り、寝る頃には既に体力がないという状況だった。

 

次の日の朝起きると、傾斜のせいで隅っこのほうに男三人が固まり、しかも灼熱地獄という凄惨な(?)状況で目を覚ました。

 

会場は夜や雨が降るともの凄く寒いのだが、晴れると異常に熱くなり、風通しが悪く性能が悪いテントだと中は灼熱地獄と化すのだ。

 

もの凄い暑さに目を覚ますのだが入り口が遠い、傾斜の上の方に入り口があるための寝起きで這ってようやく入り口から顔を出す。時計をみるとまだ、朝の7時。太陽が意地悪に笑っているようだった。

 

朝ご飯を食べ、ふらふらしながら会場へ、会場に着くと疲れが吹き飛んだ

 

グリーンステージには既に大勢人がいて、期待を膨らませている。ポジティブな空気に包まれているのだ

 

そして始まるステージ、1番手の"ROCKET FROM THE CRYPT"は全然知らなかったがノリがよくてすぐさまモッシュピットに駆け出した。こうして8年連続、沖縄に移住するまで行き続けたフジロックが始まったのだ。

 

この当時、レディオヘッドを聞いて以来、パンク以外も聞き始めた頃だったが初日は"Hi-STANDARD"がメインだった。

 

始まる前にいったのだが、既にモッシュピットは入場制限がされていて、ショックだった。当時ハイスタの人気は絶頂で、前のバンドからハイスタファンが占拠していたのだ。

 

入場を断られ、帰ろうとしたのだが、ハイスタをモッシュピットで観れなかったら公開すると思い。必死に考え、改めて状況をみると、モッシュピットまで鉄柵が二つあり、鉄柵は手を使えば飛び越えられる高さ(このときバスケやっていた名残でジャンプ力には自信があった)で、警備もボランティアの学生、警備の感覚も少し空いている。

 

連続で2回ジャンプすれば、モッシュピットまで行けると踏んだのだ。

 

そこで、「なんでもないフリ」をしながら鉄柵に近づき、警備員が目を離した隙にジャンプ。気がつき近寄ってくるが、その時には2つ目の鉄柵を飛び越えた後で、突然降ってきた人間(オレ)に驚き

 

「きゃ」

 

という悲鳴に

 

「ごめんねー」

 

といい、人ごみにまぎれて逃走

 

こうして、モッシュピットへの侵入が成功したのだ。

 

いざハイスタのライブが始まると、急に温度が上昇しモッシュの嵐。一曲目が終る頃には大きく息切れがするほどで体力的にピークを迎えるほど。

 

それでも曲が始まればモッシュしだすの繰り返しで、ライジングサンロックフェスティバルでみたミッシェルガンエレファントとこのときのハイスタがモッシュのすごさでは一番だった。

 

そのくらいの凄まじさだった。

 

興奮も絶頂で、無性に後頭部に傷をおったときの「ムーサルトダイブ」をやりたくなり、鉄柵近くに移動

 

そして、ムーサルトを敢行。回りの「おぉ」という声を聞きつつ人の上の着地し、そのまま転がる

 

地面に着地し、「よしっ」と思っていると、どうもムーサルトが決まった時に俺の足が女性の頭に直撃したようで

 

「だからきたくなかったのにぃ」

 

と泣いていた。

 

(し、しまった)

 

と思い、卑怯にも何もやっていないような態で、

 

「大丈夫ですか、外に出た方がいいですね」

 

といい、鉄柵外に誘導。

 

自分が怪我をするのはいいとしても、他人を怪我させるのは心外であり、以来ムーサルトは封印することになる(当たり前)

 

その後はもちろん何事もなかったかのようにモッシュ&ダイブを繰り返す。

 

ところが、途中でステージ前の鉄柵を超えてしまったのだ。ここを超えると米兵のセキュリティがいるゾーンで、脇の方に追いやられて最前列のモッシュピットには戻れないのだ

 

(し、しまった)

 

と二回目

 

しかも、次の曲は「モッシュアンダーザレインボー」で、この曲でモッシュをするために前に着たのだ

 

(なんてこった)

 

と思いつつ、後ろ髪を引かれながら米兵に囲まれ退場。

 

モッシュアンダーザレインボーのイントロを寂しく聴いていると

 

モッシュピットの外でも、モッシュの流れができていたのだ。

 

最前列のモッシュピットを囲むようにモッシュの流れ

 

後から映像で観たのだけど凄い絵だった。

 

怒濤のハイスタをみたあと、ホワイトステージへ、"PROPELLERHEADS"と"UNDERWORLD"を観にいく

 

"RAGE AGAINST THE MACHINE"と被っていたのだが、なんとなく後から観れるような気がして、パスした。

 

PROPELLERHEADSが二度と観れない気がしたのだ。

 

RAGE AGAINST THE MACHINEはこのあと何回か日本にきたのだが、ついに観ることなく解散してしまった。

 

好きなのに観れなかったバンドの一つになってしまった。(再結成したけど、やっぱりこのとき観たかった)

 

ホワイトステージでは、audio activeが演奏していたと思う。今では好きなのだけど、このときは知らなった。いや、このとき観て好きになったのだ。

 

おそらくこの日をきっかけにDUBに昏倒することになったのだと思う。

 

お目当ての"PROPELLERHEADS"と"UNDERWORLD"はやはりかっこ良かった。

 

フジロックでは取捨選択する場面があまりに多過ぎる。

 

選ぶのに悩み嬉しい悲鳴をあげることがたびたびあるのだ。

 

この日は"UNDERWORLD"をみて、帰ったのだが、今思えば

 

"BOOM BOOM SATELLITES"観たかったし、ヒップホップを知らなかった俺は、この日フジロックに初めて日本語ラップのラッパーとして出た。TWIGYとRINO LATINA。

 

リノさんとは自分が再活動のきっかけになった2011年3月11日直後に沖縄で「盃」というイベントで出会うことになる

 

あのイベントは精力的にチャリティをしたイベントで、そのお礼と称してステージに立ったのだけど、あのステージで話したことがきっかけで3.11という曲が産まれた。

 

音楽は最高だ

 

ちなみにSR2Sの曲で"Punk Roc Generation"という曲があるのだけど、この日に出ていた"DEEJAY PUNK-ROC"という表記をみて「いいなぁ」と思いRockからkを抜いた

 

原点の目次

  1. 第一章 解離性同一性障害
  2. 第二章 内部人格
  3. 第三章 新婚旅行
  4. 第四章 統合
  5. 第五章 命を繋ぐ前編
  6. 第六章 命を繋ぐ後編
  7. 第七章 明るい未来
  8. 第八章 安住の地
  9. 最終章 涅槃

 

亀井亮介 (2012年7月18日 06:11)

ムダすぎるラジオ番組'乙’ワールドはFM21(76.8MHz)22時から放送でーす

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おはようございまーす!

RetinaディスプレイMacを中心に様々な環境が整いつつあります!

分野別にこのアプリインストールしたとか使用感とかレポートしまーす。

今日の夜22時からFM21(76.8MHz)で乙ワールドを放送しまーす。自分を含めて3人全員集合してほとんど中身のないトークをしまーすので、暇な方は是非どうぞー

沖縄県以外の方は、FM21ホームページ動画かサイマルラジオで聞いてくださいね〜

亀井亮介 (2012年7月 6日 09:02)

解離性同一性障害の一つの例書籍化プロジェクトまとめページ|書籍化プロジェクト

ライジングサンロックフェスティバル2001|書籍化プロジェクト

2001年 2001年8月17、18日

フジロックフェスティバルの興奮が覚めないうちに、行ったライジングサンロックフェスティバル

くるりの「ばらの花」を2人歌う

「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったけな

安心な僕らは旅に出ようぜ 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」

埠頭で飲んだジンジャーエール

ミッシェルガンエレファントはやっぱり鉄板。

52円の人情が詰まったカレー

フェイスブックページタイムライン時系列で載せはじめました。下記の話しがよりリアルに!

ブログのまとめページはこちら

原作:解離性同一性障害の一つの例


亀井亮介 (2012年6月 5日 10:36)

コンプレックスをぶっとばせ〜 フジロックフェスティバル2001|書籍化プロジェクト

2001年 7月27日 フジロックフェスティバル1日目

グリーンステージ

KEMURIでダイブ

ドロップキックマーフィーズ

SHERBETSの世界観

Asian Dub Foundationの文句無しのかっこよさ

レッドマーキーで、Feeder

グリーンに戻り

マニックストリートプリーチャーズ

やはりオアシス最高!

フジロックフェスティバル2001年7月29日 2日目

フジロックの地母神パティスミス

モグワイの轟音

アレックエンパイアの「デストローイ」

この日のホワイトステージのトリは音が美しいニューオーダー

2001年7月30日 3日目

熱い、とにかく熱いブラフマン

本当に「ドライ」で「ヘビー」なドライアンドヘビー

Two Lone Swordsmen

Squarepusher

Orbital

Coldcut

BRIAN ENO

EMINEM

レジェント・ウィルコジョンソン

チバユウスケ

LOSALIOS

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原作:解離性同一性障害の一つの例


亀井亮介 (2012年6月 4日 11:48)

プロフィール

profile はいさい!1979年生まれ宮城県石巻出身、沖縄県宜野湾在住のちびっこ3人の父ちゃん亀井亮介( @KameiRyosuke )です! 山形大学工学部卒業しフリーランスでWEBプログラマー、コンサルティング兼ミュージシャンをしています。
自分の作品を通して新しいコミュニケーションを作ることで、故郷宮城県石巻市復興と、沖縄のゆいまーる精神を伝えるお手伝いをしています。

SR2S アルバム "Story of the ... "

沖縄県浦添市FM21 金曜22時からは‘乙’ワールド!

毎週金曜日の夜は沖縄県浦添市FM21ラジオ‘乙’ワールド!
FM21ホームページ動画とサイマルラジオで全国どこででも聞けます。過去の‘乙’アーカイブもありますので、いつでも観れます聴けます!
「‘乙’ワールド」の‘乙’とは、遊びの心で日常を見てみると、見えない物が見えてくる。それはおかしくて豊かで大切なことだった。心が楽しく暮らす場所、「‘乙’ワールド」